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 大規模環濠の発見
下之郷遺跡の環濠は、少しずつ、長い年月をかけて全貌が推定できるようになってきました。
環濠発見の歴史のお話しをしましょう。
下之郷遺跡発見のはじめ

下水道工事が発見の糸口

1980年下水道の立会で見つかった遺物は、当時すでに分かっていた南側の吉身西遺跡の一部だろうと考えられていました。
1982年にも、別の所で遺物を掘り出しましたが、これも吉身西遺跡と考えられました。
1983年、都市計画道路工事に先立ち、本格的な発掘調査が始まりました。なんと、この発掘で3条の大溝と多量の土器・木材が見つかったのです。出土する土器の年代は弥生中期で、これまで想定していた吉見西(弥生後期)とは異なるため、新しい遺跡と判定しました。そこの地名に因み、「下之郷遺跡」と命名されました。

環濠発見の歴史

3条の大溝発見−−「環濠」の予感

mizo 先ほど書いたように、1983年、道路工事の調査地で、表土を30cm取り除き平面調査が始まりました。この辺りでは、田畑の土を30cmほど掘ると弥生時代の地面に行き当たるのです。この平面調査で3条の大きな溝らしきものが浮かび上がりました。右図のように、5m〜7m幅の溝候補が3条、10m間隔で並んでいます。
下之郷発見に先立つこと数年前、1974年〜1979年にかけて服部遺跡で幅8m、深さ2mの環濠を発掘していました。この経験があったので、下之郷で発見された溝らしきものは「環濠」の予感がありました。とは言っても、掘ってみるまでは浅い溝か深い濠か判りません。
土の質、色合いから元々の土地と埋まってしまった溝の区別がつきます。通常は土の色を見ながら溝の境界を見つけるのですが、ここでは溝から遺物がどっさり出てきます。「ここは溝」とはっきり判るのです。多い時にはトラック何台分もの遺物が出てきて保管所まで持ち帰りました。
もし遺物がなく、服部遺跡での環濠を発掘した経験がなければ、掘っても掘っても底が見えず人の背丈より深くなっっていく溝に不安を覚えたことでしょう。
この新遺跡発見もまだまだジグソーパズルの始まりの一コマでした。

ジグソーパズルのように大溝が次々と

発見したのが大溝と判っても、集落を取り囲む「環濠」とは判定できません。
その後も宅地開発や公共工事の時に遺跡確認調査を行ない、ポツリポツリと大溝の発見が続きました。
1983年最初に発見した溝は、実は環濠の南側でした。1987年には、西側の環濠が発見されましたが、南と西の溝だけだは、まだ「環濠」と判断できません。
その後しばらくは環濠に行き当たるような発掘は無かったのですが、1994年の発掘で北側の環濠の位置が確認できました。これにより、環濠集落としての大まかな規模が掴めました。

環濠発見の推移

その後の発掘でジグソーパズルのコマが一つずつ見つかるように、環濠の位置が判明していったのです。今日まで30年かかってようやく全体の2割ほどの環濠が確認できました。
年ごとの環濠発見の推移を下の図に示してあります。

図中の「Start」ボタンをクリックすると発掘の歴史がご覧いただけます。

外縁部に大溝の発見

(当初は)隣接して酒寺遺跡の大溝が・・

1988年ごろ、下之郷遺跡の北東にある酒寺遺跡にも多条の大溝が見つかっていました。下之郷遺跡の北側の環濠はまだ見つかっていない頃です。
1994年下之郷遺跡の北側の環濠が発見され、ここが遺跡の北限と思われました。この2つの遺跡はいずれも弥生中期の遺跡で、隣接して存在していたことが判りました。
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外側にさらに多条の環濠が・・

1997年には酒寺遺跡の大溝に隣接して、下之郷遺跡の北東側に6重の環濠が発見されました。この6重の環濠は、酒寺遺跡の大溝と同心円上に繋がりがありそうな ことから、これら大溝は下之郷の外縁部の大溝または環濠の一部と判断されました。
酒寺遺跡の大溝と思われていたものは、実は下之郷の外縁環濠の一部となっていました。
また、2001年には下之郷の北西のはずれに2条の大溝が発見されます。 この大溝の東側(集落側)に建物跡や生活の痕跡が見つかったことから、この大溝が下之郷遺跡の外縁にあたると判断しました。
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外縁部大溝の構造は?

2006年、2008年と遺跡の東側に、北東部の外縁大溝につながると思われる大溝が見つかっています。これらの大溝がつながる可能性もあり、東側には集落を大きく囲む外周環濠があったのかも知れません。
北西部の大溝につながる溝は、今のところ見つかっておらず、これが局所的な大溝なのか、あるいは小さな環濠をかたち作るのか、推測も難しいです。
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