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多重環濠
1983年に初めて3条の大溝を発見して以来30年、遺跡全体に比べると点のような小面積の発掘の積上げで、環濠の全貌を推測できるまでになりました。
多重構造の環濠
集落の周りに、深さ2m近くもある大きな濠が3重から9重も掘られた多重環濠集落となっています。内側の3重の大溝は集落を完周した環濠となっているようです。
弥生時代の大規模環濠は、川や谷と組み合わせて形成されることが多く、これだけ大きな規模の環濠が集落を取り囲んでいるものは珍しいことです。
また、集落の東半分は、その外側にも3条の大溝が巡らされており、6重の環濠となっているようです。
集落の西側半分の発掘個所はまだ少ないのですが、西側の南北方向では、3重環濠の外側に大溝は見つかっていません。
北東側を見てみると、6重の環濠の外側にさらに数条の大溝が見つかっており、9重の環濠かと考えたこともあるのですが、現在までの発掘では、外側の大溝が集落を巡っていると考えるのは難しいようです。
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集落の外縁部で大溝が発見されていますが、今のところこれらの大溝が集落をどのように取り囲んでいたのかは分かっていません。
弥生時代の人たちは、掘り上げた土を盛り上げ土塁にしたと思われますが、下之郷遺跡ではその痕跡は見つかっていません。土塁があったとしても、後世の人たちが田畑にするため削りとり、痕跡は残らないのです。

環濠の発掘調査
地面を30〜50cm掘り下げると、弥生時代の地層が現れます。したがって、この表層土まで掘り下げて行くと、この時点で土器などの遺物が出てくることもありますし、土色や土質の違いから柱穴や建物跡と共に環濠跡が見つかることもあります。ここまでが平面調査で、面として遺跡の情報が得られます。
遺跡範囲を確認するための調査の場合には、環濠の存在が判っても、遺跡を壊さずにそのまま保存するために平面調査で終わりとなります。
開発工事によって遺跡が破壊される場合、記録保存のために、地中にある遺物を確認するために本掘り調査を行い
ます。この場合、環濠の底まで掘り下げて遺物を調べたり、環濠の開削・埋没時期を判定したりしますが、幅5〜8m、
深さ1.5〜2mの環濠の土を全部掘り上げて調査するのは大変な作業です。
平面調査の場合でも、トレンチ(ベルト)堀りと言って、環濠を横切るように、帯状に幅 1〜2mを掘り下げて、環濠の断面を確認します。一断面だけれども、幅、深さ、形状、土の堆積状況など有益な情報が得られます。偶然、この狭い範囲から貴重な遺物が見つかることもあります。

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環濠を掘って判ること
環濠からはいろいろな遺物が出てきます。遺物のことについては次のページで説明しますが、環濠自体からも
いろいろなことが判ります。

しがらみ杭

「しがらみ」とは、川や溝に杭を打ち込み、杭に木や竹を横にとりつけて水の流れをせき止めるものです。下之郷遺跡でも東側の環濠や、環濠の外側にある居住区の大溝の中にしがらみ杭が見つかっています。
居住区の大溝で見つかったしがらみ杭は、11本と4本の2列の木杭列が大きな溝を横断する形で設けられていました。これにより、ここ溝には水があったことわかります。しがらみは水位の調整や貯水などの役割を果たしたものと考えられます。
東側の環濠で見つかったしがらみ杭も溝を横断するように2列の木杭列が打ち込んであります。これも同じような目的で環濠を仕切るために設けられたものでしょう。
なぜ、このようなしがらみが設けられたか、当時の弥生人の生活を考えて行く上で貴重なヒントとなります。
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居住区の大溝で見つかった杭
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東側の環濠で見つかった杭

環濠の歴史

環濠を掘るとき、遺物を求めてやみくもに掘り下げるのではなく、土の色、質、混入物などを参考にしながら、土がどうのように積み重なっていったのかを、土層の堆積(たいせき)分布を詳細に調べます。また、遺物はどの土層から出てきたのかを記録に残します。
発掘現場では、濠に垂直な断面が得られるように掘り下げ、土層の堆積分布図をつくります。下の図の左側はそのようにして得られた、土層の堆積分布の断面図です。
この分布図より、次のような、弥生時代の環濠の様子や時期の経過により変化していく様子が読み取れ、いろいろな情報を得ることができます。
  • 開削された時期
  • 開削された後、埋積していく様子
  • その後、再掘削される様子
  • 人為的な埋め戻し
  • 埋没していく様子
環濠のあちらこちらでこのような調査をし、埋まっている土器の年代を調べることによって、環濠全体の成り立ちや多重環濠の各濠がどのように開削され、どのような経過で埋まっていったかなどを読み取ることができます。
図の右側には、一般的な濠の開削、埋没の様子を例示しています。
通常、掘った土は防御性を高めるために、土塁として濠の横に積み上げられます。時の経過とともに、土塁や側壁が崩れ落ちたり、人為的に土塁を削り取ったりして埋没していきます。
環濠断面

地震の痕跡も

埋没した環濠の土の堆積断面図で、層と層の境界を詳細に見ると、スムーズな境界や入り組んだ境界があります。水を湛えた濠の底には泥状の堆積物が層状に溜っています。地震で大きな揺れを受けると水の振動で層状の堆積物も揺れ動き、層間の境界が羽毛状、火焔状に変形します。
また、土の柱状サンプルを採集し、各層に含まれる土、礫(れき)、植物遺体などが受けた変形を観察すると、それが地震動で生じたことが判ります。
下之郷遺跡の環濠の断面観察や土のサンプル分析から、そのような現象が認められました。どうやら、下之郷の150年ほどの歴史の中で大きな地震に2度も見舞われたようです。この地の人達はとても驚いたことでしょう。
断面
 環濠断面の層間の火焔状の乱れ
断面
 土のサンプル(上)と構造図(下)に認められる変形

環濠は何のために?
弥生時代に入り、農耕が主体の定住生活になってから、米づくりの土地や用水を求めて戦争が始まったと言われています。敵の侵入を防ぐため環濠が掘られ土塁が築かれました。何重にも濠を巡らせた多重環濠は、敵の矢が届かないための工夫だと考えられます。
下之郷遺跡では、出入り口の近傍で多くの武器が、中には折れたり焼けたりしたものが見つかっており、当時の緊張した社会情勢がうかがえます。環濠はまさしく敵の侵入から防御する施設と言えます。
ただ、防御だけが目的かというと、そうでもなさそうです。
別の個所でも述べますが、環濠からは製作途中の木製品がたくさん出てきます。木材は乾燥すると割れたり、石器では加工しにくくなるので、水中で保管していたと考えられます。
この他、水田に水を導くための灌漑用水路だったという説、あるいは生活用排水の役目を果たしていた説、当時のびわ湖はよく氾濫していたようなので、氾濫した水を逃がすための施設という説などがあげられます。また、しがらみ杭の存在も環濠の多様な使われ方を示唆しています。
きっと、当時の子どもたちは濠の水辺で遊んだことでしょう。


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